池田晶子が訴え続けたものー純粋な言葉としての彼女ー

こんにちは!石ちゃんです。

 

今回取り上げるのは哲学者池田晶子氏です。

 

 

池田晶子氏は1960年生まれの文筆家/哲学者です。
哲学用語に依らない哲学」というジャンルを確立し、様々な哲学エッセイを刊行しました。

 

日常用語による哲学は様々な世代の読者を獲得、
出版した中高生向きの「14歳からの哲学」は好評を博し教科書でも扱われました。
(同氏は2007年2月3日に膵臓癌のため逝去(46歳)しました。)

 

 

この記事ではそんな池田晶子氏について語っていきます!
いってみましょう!

 

 

 

池田氏の功績「14歳からの哲学」

 

「自ら考えること」
池田氏が著作の中で一貫して述べていたことはその一点に尽きるでしょう。

 

著書「14歳からの哲学」では特にその姿勢が見事にあらわれています。
外からの知識や考えをインプットするのではなく、徹底的に内省することによって概念を掴むという過程そのものを「14歳〜」では描かれています。
哲学の考え方、また思考過程を「覚える」という作業はこの本では全くされていません。

 

「知識としての哲学」を徹底的に排除している「哲学書」です。

 

 

覚えるのではなく考える

昨今の考えるブーム

 

最近の社会的な一種のブームとして「考える」という風潮を感じているのは私だけでは無いでしょう。
学校でも会社経営でも大事ものは「考える」ことです。

 

しかし今の「考える」ブームでは「社会的承認」が最終目的になっています

 

「お金を稼ぐ」「相手からの承認」など一種の「見返り」をかすめ取るために有用な行為
それこそが「考える」という媒体になっています。

 

「何かのために考える」という社会生活ありきの「思考」
それが今のブームとしての「自ら考える」ではないでしょうか?

 

 

考えるから考える

 

社会のために考える、また認めて欲しいから考える、というのは非常にスケールが小さい。
それは他者への迎合でしかない。

 

結局それは承認を得るための「思惟」というより先程行った「迎合」にしか過ぎません。
結局そこを煎じ詰めると「お金」または「快適さ」の追求にしか過ぎないのです。

 

「何かの為に考える」
この発想は非常に空疎で見え透いています。

 

ここで話を戻しますが、池田氏は何のために考えていたのでしょうか?
それは彼女にもわからない事だった、はず・・・そのように私は断言できます。

 

しかし、あえて言うならこう言えるかも知れません。

 

「池田氏は何かのために考えていたのではない。考えるということがあったから考え続けた。」

 

考えるという純粋な欲求の存在

 

それがあった故に池田氏は考え続けたのでしょう。

 

 

言葉と精神

 

その「純粋な欲求」の正体となっていたのは考えを構成する「言葉」
そしてそれの根本の「精神」に他ならないでしょう。

 

言い換えて言ってみます。

 

たとえばピアノを弾くことが好きな人間がいたとします。
その欲求を満たすものは他ならない「ピアノ」であり、その人の「好きという気持ちそのもの」です。

 

それを池田氏(考える全ての人間でもある!)にとってみれば考える為のピアノが「言葉」であり気持ちは「精神」であるといえます。

 

そしてよく考えてみると「考える」と「精神」というものは境界線がないものです。

 

言葉を駆使するのが精神ならその精神も言葉でありその言葉はまた精神に依っている、というループになっていることもわかります。

 

「すべては言葉だ」
日本最高の評論家小林秀雄がそういったのもその面で言えば合点が行きます。

 

そしてその「言葉」と「精神」とそのものを欲求し考えていったのが池田晶子氏だったのです。

 

 

純粋な言葉、精神

 

「何のために何を考える」
か、ではなく
「考えるから考える」
という池田氏の著作の純粋さには舌を巻くものがあります。

 

名声や迎合の為の言葉ではなく、
ただそこに言葉があるから考えるという剥き出しの「純粋すぎる思惟体型」は普遍性を帯びて今の時代に生きています。

 

 

私個人の思い

 

哲学という、ある意味言葉の「最強の媒体」を使っていた池田氏が今生きていたら・・・
という愚かな想像に耽ることがたまにあります。
いや、かなりあります。

 

世に蔓延る「快楽」や「地位」や「名声」をゴールとした思考体系が、いかに虚しく純粋さを欠いているのを、「考えてしまう」池田氏はどう思うのか?

 

「名声」諸々とはいったいなんだね?
それよりも、それそのものを考えよ。

 

そう池田氏はいったような気がしてなりません。
その訊ねる姿はソクラテスがソフィストを論破していく状況と照らし合わせてしまいます。

 

(私のただの妄想です)

 

 

まとめ

 

池田晶子氏は生粋の哲学者だったことを認めるのは私だけではないでしょう。
それは沢山存在しているはずです。

 

その考える精神と、それを駆使し続けた彼女の勇ましさ。

 

また言葉そのものの限界の「無さ」を信じ、
底抜けに思考をやめなかったその姿は美しさまで感じてしまいます。

 

彼女の墓跡にはこう記されているそうです。

「さて死んだのは誰なのか」

まさにそのとおりです。確かに池田氏は死にました。
しかし、確実に何が死んだのか解らない・・・。死ぬとは?

 

逆に生きるとは!?

 

それを一番知覚しているのが彼女の存在そのものだと考えると戦慄さえも覚えます。

 

その戦慄するする言葉の数々。
そして考えることの無限さ。

 

是非池田晶子氏の著作で堪能してみてください。

 

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